前回の日記で、

“せめて後から思い返して自分で納得のいくような振り、振られ方なんてあったら提案してみたいなぁと思っています。”

なんて偉そうなことを書いて、実は頭を抱えている。

とうのも、人それぞれに納得のいくレベルは圧倒的に違うのである。

そんな当たり前のことが目の前に横たわっている限り、私は結局それに腰を降ろして自分の意見を述べるにすぎないと思う。

そう、意見なのである。

これから書くことはそんな感じで受けとめて貰えたらいいと考えています。

今回は‘振られる’ということについてでも。

振られるとき、多くの人が取り乱す。 それまでの関係の居心地が良ければ良いほど、取り乱し方は酷くなるのかもしれない。

その動機はなんだろうか。

相手の裏切りに対する怒りからか。

相手を恐怖で押さえつけてでも、我が物にする独占欲からか。

幸が不幸か人間はそんなに攻撃的にできていない。

その乱れはみてくれはどうあれ、結局は内へ内へと本人に帰っていく。

これから自分が迎えるであろうなんともいえない孤独を想う痛み。

自分が否定されたことによる痛み。

そんなところが私にはしっくりとくる。

そういう取り乱す痛みの本質をわかっていないと、月日が経ったある日、ふと後悔するのかもしれない。

振られた時の後悔の本質は、相手にぶつけたハズの取り乱しが実は相手あるものでなく、自分に対してということだったということに。

もちろんその後悔はあとから人間的に成長する原動力にもなるのだが、‘振られる’という現象が相手を伴う以上、人によっては相手に傷を残してしまう可能性がある。

そんな意味も含めて‘後悔しない振られ方’なんていうことを考えている。

突然の別れという衝撃に襲われたとき、多くの人が先に触れた内在する恐怖に襲われると仮定する。

でもそれは一時的なものであり、なぜならば、‘振られる’という衝撃で脳が‘おまえは一人だぞ’というある種の強い警告を発した後のショックだからでもある。

でも、実際は相方を一人失っても現実的に考えればそれは決して自分自身にとってネガティブなことではなかったりする。

むしろ、いろんなことに挑戦できたり、あたらしいフィ―ルドに身をおく機会が生まれやすいからだ。

人がその快感に気づくのはちょうど世間一般でいう‘時間が(それを)解決してくれる’というフレーズが現実的に体感できる時だろうか。いいかえれば、その頃に脳が‘振られた’あとの今後をポジティブにシュミレートできたときなのかもしれない。

結論をいそぐようで落ち着きがないのだけど、結局は普段から自分自身に現実的であればそれでいいと思っている。 

人間は結局一人で生まれ、一人で死ぬ。

自分で言っていて、実に綺麗ごとも甘味もない陳腐なフレーズである。だから人はせめて生きているときにその現実を避けるように愛情に飢えると感じている。

それは素晴らしいことだし、私もその恩恵をこうむっている。

でも、例えその状態が壊されても人生はそれ以上でもそれ以下でもない。

新しい選択肢というのは必ず出てくる。

万が一、‘振られる’という状況が来た時、その瞬間の絶望なんかよりも将来への新しい展望を考えてほしい。 

絶望を感じてもそれは‘脳の自己防衛本能の一環としての警告’ぐらいに考えておいて、目を先にむければ随分と世の中変わって見えるのではなかろうか。

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